ゲド戦記見てきた

噂には聞いていたがまさかこれほどとは・・・、という感じ。
悪評をたんまり仕入れて、覚悟して見に行った俺ですらそれだったから、ル=グウィンのショックはどれほどのものだったろうか。試写会で映画の上映が終わった後、監督に無邪気な顔で目の前で「お気に召しましたか?」と問われたら俺だったらどう答えただろう。
ちょっとこれは苦笑するしかなかったかもしれない。

ところで、映画を見る前に仕込んでいた鑑賞ポイントは次の二つ。
1,ル=グウィンが批判していたように、暴力的に正義が悪を打ち倒す単純な物語となっているのか否か。
2,ユリイカの8月臨時増刊号で井辻さんの書いていたアニメーションはミセス・ブラウンを描くことが出来るのかという問題。

この二つのポイントに沿って考えてみる。
まず第一のポイントに関して言えば、監督の意図したものかは別にして、すくなくとも気持ちよく正義が悪を倒す物語を堪能できる映画にはなっていなかったように思う。なにしろあまりにストーリーがぐだぐだで、暴力描写、残酷描写も後味が悪いんだもの。ぐだぐだなストーリーの果てに、気味の悪い主人公たちが気味の悪い敵役を残酷に打ち倒すんだから、映画の前向きな結論には誰も納得できなかったのではないか。小森陽一村上春樹の「海辺のカフカ」に危惧した機能は、幸いなことに(?)あまりこの映画には期待できないように思う。さらにいえば村上春樹は周到にも父殺しをナカタさんというじいさんに代行させ、風の歌を聴いた少年が自己回復の冒険の果てに戻ってきたときに罰せられることから守っていたが、吾郎監督はそんな姑息なまねはしない。
だから俺の妄想のなかではこの映画の主人公、父殺しレバンネンの悲しい後日談が想像できてしまう。意気揚々と国へ帰ったレバンネン。
おらぁ世界を救ったべ、分裂症も克服したべ。トオチャンに代わっておらが王様になるだ。
「いや、君国王殺したでしょ。普通に死刑だからw」
王都の門をくぐった瞬間父殺しの罪であっさり捕まるレバンネン。ノー、と叫んでももう遅い。まるで映画公開後の監督すがたではないか。

つぎに第二のポイントだけれど、その前にこの映画の設定を考える必要がある。この映画は、動きの一番少ない4巻の世界をベースに、3巻の敵キャラクターをかぶせ、1巻を借りて主人公のキャラ付けをすることによってできあがっているように思う。この映画の舞台となった4巻こそは2巻の主人公たるテナーとゲドの晩年を描いて、アースシーの世界にまさにミセス・ブラウン的肉付けを行ったものだったはずだ。監督さんはどうもこの4巻の世界を映画のメインの舞台にしたことの意味に無自覚であるように思う。4巻を舞台にしながらそのままでは動きがなさ過ぎてお話にならないからと、無理矢理動きを出すために3巻と1巻の設定を付け加え、なおかつ暴力描写で興奮を付け足す。それって一番最悪なやり方では・・・。しかも多くの人がケチつけたように動きの表現も、止まった絵の見せ方も不十分だっていうんだから、これはもう失敗と言うしかない。
ル=グウィンは例の感想で農作業をしているシーンは良かったと書いていたが、それはあのシーンだけがこの4巻の舞台に似つかわしいものだったからであり、この映画の中で唯一ミセス・ブラウン的なものに触れたシーンだったからなのかもしれない。

ゲド戦記というタイトルとジブリという看板を背負いながら恐ろしく豪快に失敗していて子供を連れてのエンターテインメントを堪能するにはむいていないのだが、いろいろ考えさせる問題作でもあるので一見の価値はあると思う。