最近の昭和天皇の侍従のメモをめぐるニュースを見ていると、改めて小泉という人物についての興味をかき立てられる。
小泉さんは復古主義的な保守主義や、ネット上の糞ウヨみたいなイメージで見てはいけない人だなぁと改めて思う。
あのひとはなんだかんだ言って近代的精神を持った人間なのだ。
個人の愛国心を外部から評価するのはおかしいと感じ、宗教的信念に干渉されることに生理的な拒否感を抱く。
自己の外部にある権威によって精神の自由は縛られない。権威者(天皇)がどうであれ、自分は自分だ!

すばらしいではないか。
”発見されたメモはねつ造だ!”とかいってるウヨの人と小泉さんの判断基準は全く異なると言うことは留意すべきだ。小泉さんにとって見れば天皇制なんて、プレスリー以下の存在にすぎないのだから。
昭和天皇靖国A級戦犯が合祀されていることに不快感を感じようが、天皇家が女系になろうがそんなことはどうでもいい。
おそらく小泉さんにとって大事なのは、
自分>姉(小泉家)>アメリカ(プレスリー)>>>>日本≧天皇
ぐらいの順序だろう、おそらく。

ところで最近では実は、小泉さんの論理ならば靖国だろうとどこだろうと参拝しようとどうでもいいじゃんと思うようになっている。
”小泉某が彼の信仰する某宗教施設に行きました。”
ただこの無味乾燥な事実だけを見る。俺らは小泉さんの行為、そして靖国という施設から漏れるさまざまな解釈の可能性に対して目をつむり、禁欲であろうとする。
俺らが自制するのだから、同様に小泉さんにも、政治的個人が非政治的に行為するための正しい手続きを採ることを求め、自己の行為が持つ政治的効果に対して禁欲であろうとすることを求める。
これで終わりにするほうが、「国家が靖国神社A級戦犯の合祀をやめさせ」たり、「全ての国民がすすんで弔うことの出来る国家的施設を建設する」なんぞよりはよっぽど健全な気がするんだけど。