アッカンベー

コノリーの本を読んでたら、これまであまり読んだことの無かったジェイムスとか、ベルグソンとかの話がいっぱい出てきた。コノリーの議論だけよんでもよくわからないのでこれらもちまちまと読んでいるのだが、アガンベンもその一人。
アガンベンというと歴史修正主義の話とか現代思想の話でよく見る人だけど、フーコー系というだけで食わず嫌いでいた。今回は「ホモ・サケル」という本を読んでみたのだけれど読んでみると納得できないところも多いが思ったより面白かった。

結構難しくてよく分からないところも多いのだけれど、読んでみてアガンベンという人の議論の出発点は収容所という歴史的経験の「実在」に基礎をおいていると感じた。
このタイトルであるホモ・サケルとはいわゆる「鳥の自由」と同じようなものだろう。つまり都市の法の保護の外におかれ殺害可能な状のことだろう。
だが収容所はこの「自由」をも統制する。つまり「死」を確定させることによって生の領域に伴う不確定性を排除する。文字通り死すべきものとして人間は定義されうる。例外状況としての収容所において初めて剥き出しの生を政治が完璧に統制する空間が現出した。生政治が死の政治として現れた、ということか。
収容所の経験の意味は重い。だがそこで近代の営み自体を全て捨ててしまうわけにはいくまい。ナチズムとハイデガーについて書いている部分で筆者も書いているが、そこではあくまで剥き出しの生とはあくまで、「政治」的に定義された生でしかなかったはずだ(しかも非常に単純なやり方で定義された)し、必ずしも必然的に実在の「収容所」として帰結するわけでもあるまい。
生それ自体が政治的な重要性を持つというとき、そこにはまたべつの可能性だってあるはずだ。古典的な「政治的なもの」という生の種別を再興しようとする方向性もあるし、また剥き出しの生の局面を経済学あるいは経済学批判という形で追求し、よりましな生政治を模索する方法だってあると思うのだが。