遠藤公嗣著 賃金の決め方−賃金形態と労働研究 ミネルヴァ書房

筆者も断っているけれど、賃金形態のみを論じていて「賃金体系論」についてふれられていないのはおしいし、大学の学者研究者のみを重視して、金子美雄さんを中心とした賃金実務者たち、いわゆる金子学校の人々の研究も無視しているのも疑問だったりするけれど、重要な本であるのは間違いない。
遠藤先生は相変わらずぼろくそに書いているけど、小池和男先生の上がり方重視は、決め方(賃金形態、賃金体系)の外形的複雑性を無視して賃金の上がり方のみに着目することで国際比較を可能にする一つの方法としては意義あったと思う。
もちろん遠藤先生も指摘しているようにあがり方と決め方が必ずしもリンクしているわけではない。それどころか決め方が同じ賃金カーブを描く労働者間の働き方の違い、格差をもたらす決定的な重要性を持っていた。
遠藤先生はこの決め方への関心からわが国のこれまでの賃金形態論を再検討し、その延長線上に独自の賃金形態論を展開している。「職務基準賃金」と「属性基準賃金」という二つの区分はこれまでの研究でも類似の区分が見られるが、さらにこの二つの区分の下位区分を展開しているのが新しいところ。職務か属性で分けられるにしてもさらに、それらを”どのようにhow”決定し測定するのか、という視点は、成果主義や査定給を賃金形態の分類論に取り入れる上で有効。

ところで政治学に関して言えば、はっきり言ってこの決め方への関心はきわめて遅れているように思う。90年代前半ぐらいの福祉国家研究やネオ・コーポラティズム論として集団的賃金決定ついては政治学の関心、対象となってきた。しかしながら、それはあくまで集団的な水準決定のみを論じてきたのであって、集団的決定の外部及び内部にある個別的な決定が持つ固有の意義を必ずしも理論の中に組み込むことが出来ていない。
それは例えばK米先生の研究を見ても明らかであろう。あくまで利益集団論=多元主義(そしてこれは労使関係論では集団的労使関係論であった)の枠組みに固執し、個人への関心はきわめて薄い。だが、労使関係の個別化は労使関係の脱政治化、他方で労働政治の政治化をもたらしている。新たな方法論の模索は必要だと思う。