スポーツ新聞の政治的機能。

スポーツ新聞は単なる「スポーツ」新聞ではない。実際には野球・サッカーといったスポーツのみならず、事件・芸能・政治に至るまでかなり幅広い問題を扱っている。
そのスポーツ紙にとって教育基本法の改悪強行は取り上げるべき事件ではなかったようだ。先日の教育基本法の改悪の翌日、各誌の論調をチェックしようと近所のコンビニに行って新聞を買いに行ったのだけど、内容はさておき日刊紙は日経以外はトップに当然その話題を持ってきていたけど、スポーツ紙は一面・裏一面はもとより中記事ですらろくに、というかほぼ全く取り上げていなかった。
スポーツ紙というのは普通の日刊紙以上にアナウンス効果を持っているように思う。一面に大きな写真を使って大々的に取り上げる独特の編集手法にもとづくインパクトとにくわえて、なによりも早朝のニュース・ワイドショーのなかで毎日必ず紹介されることによる効果が大きい。ずらりと一面がボードに掲載されている絵は朝のおなじみの光景だと思う。
この仕組みが重要なのは、それがテレビ・新聞という異なるメディアを横断して、アジェンダを共有するという点にあるとおもう。そうしたメディア横断的に取り上げられる中で、全てが一つの方向を向いたとき「国民的関心」が作り上げられる。小泉劇場、ワールドカップで特に猛威をふるった手法だ。
この手法から見れば、スポーツ新聞というピースが欠如した今回は「国民的関心」とはいえない。メディアの中で、教育基本法とはそういう位置づけなんだ。

もちろん各誌の横並び体質、メディアが一斉になっての洪水報道は批判されるべきものであるかもしれないし、スポーツ紙は本来の役目通りにスポーツの話題、松坂のレッドソックス入りを報じるのは正しいあり方なのかもしれない。でも今回みたいに一斉に報じないというのはどうなんだろうともいえるし、だいたいスポーツにとって教育ってそんなに些末な問題なのんだろうか。
これはこれである種の非決定の決定、アジェンダとして取り上げないことの決定が働いたのではと邪推している。