新日本出版社版(新書版)、第一巻第一分冊、第一章からスタート。

第一章 商品と貨幣

「資本主義の生産様式が支配している諸社会の富は「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。」

それゆえ商品の分析から研究は始められる。
ここで商品とは、

「その諸属性によって何らかの種類の人間的欲求を満たす一つのもの、一つの外的対象」

であるが、この欲求がいかなる性質のものであるか、どのようにして欲求を満たすかは問題とならない。
問題となるのは物の有用性である。物はさまざまな点で有用でありうるが、有用性は物の属性(質及び量)によって規定されている。ある物のもつこの有用性はその物を使用価値とする。使用価値は使用または消費によってのみ実現されるが、使用価値は富の素材的内容であり、交換価値の素材的内容をなしている。
「交換価値」は、一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係(=比率)として現れる。それゆえ交換価値はときと共に変動する偶然的なもの、相対的なものとしてのみ現れるかに見える。それゆえ商品に内在的な交換価値という表現は形容矛盾であるかのようにも思える。
ある特定の商品がさまざまな比率で他の商品と交換されるとき、それはいろいろな交換価値を持っていることになるのだが、A商品X量=B商品Y量=C商品Z量となるとき、それらは互いに交換可能な「等しいもの」を表現している。
ここで、同時に相互に交換可能であるということは、それら諸商品自体とは区別されるべきある内実の現象形態に過ぎないことに注意すべきである。
つまり全く異なる使用価値のA商品X量=B商品Y量となるとき、それらは一方でもなく他方でもないまたべつの第3のものに還元されなければならない。
この第三のものは当該商品の自然的属性ではあり得ない。なぜなら商品の自然的属性が問題となるのは、使用価値に関する限りにおいてであり、交換関係においてはそうした使用価値は捨象されているからである。
老バーボン?曰く

「一つの種類の商品は、その交換価値が同じ大きさならば、ほかの種類の商品と同じである。同じ大きさの交換価値を持つ諸物の間には、いかなる相違も区別も存在しない。」

こうして使用価値を捨象するとき、商品にのこされるのは我々の有用労働の産物であるという性格だけである。しかし、使用価値が捨象され使用における有用性が問題とされないとうるのなら、現れている労働の有用性すらも捨象されることになり、したがって労働の具体性も捨象されることとなる。するとこれらの労働はもはや互いに区別のつかない同じ人間労働、つまり「抽象的人間労働」へと還元されることとなる。
こうして労働生産物に残されているのは、

「・・区別のない人間労働力の支出の、単なる凝固対以外のなにものでもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は価値−商品価値である。」