加藤幸子「長江」新潮社

「新潮」という文学雑誌は加賀乙彦の「永遠の都」シリーズ(今は第2部で「雲の都」)を読むぐらで、ほかのものは滅多に読むことはないのだが、それでもたまに気になる小説がある。これもその一つ。けれども1936年生まれの老作家で、「長江」というタイトルとくれば重厚な文字通りの”大河”小説を想像して、重たいものに改めて手をつける気にもなれずそのままスルーしていた。それが最近たまたま図書館の書架においてあるのを見つけてなんとなく読んでみたところ、想像とはずいぶん違った。

アマゾンの内容紹介を流用すれば、内容はこういう感じ。

日本軍が南京を占領した年、林福平は南京に生まれた。藤本佐智は札幌に生まれ、父の仕事のため中国に渡った。一つ違いの福平と佐智は日本敗戦下の北京で出会い、多感な少年少女として幸福な時間を共有した。そして40年ぶりの奇跡的な再会。2人は胸をときめかせたが、それぞれの戦後は残酷なほど違っていた。文化大革命の嵐で父と兄を失った福。結婚して2人の娘をもうけたが夫との生活が破綻した佐智。…さらに月日が経ち60歳を迎えて、2人は再び大陸で出会う。

これだけ見ればそれこそ想像通りの重厚な歴史大河小説で、加賀乙彦のようにリアリズム風の筆致になりそうなものなのだが、読んでみるとむしろファンタジーを思わせる感じがあるのなぜだろう。これは福平の部分から受ける印象なのだと思う。福平パートは南京虐殺から重慶爆撃、文革といった重い歴史的経験がふくまれているはずなのに妙にふわふわしているし、副平という人物の心理の描写も現実味がない。それは沙智の部分の生活の描写や心理の洞察にみられる切れ味とは対照的だ。おそらく副平の部分は、沙智が他者として60を過ぎて突如現れた男を理解しようとして作り上げたまさにファンタジーとしてみるべきなのかもしれない。ラブレターのような熱烈な手紙を寄せてきたあなたは何者なの?という問いかけから生まれた沙智の中の想像の物語なのだろう。

そのファンタジーの中での福平は勇気ある高潔な人物として描かれている。でも沙智はそんな男なんていないということも知っているはずだ。今はごりごりの右翼で、妻や子に暴力をふるう夫も、嘗てはサルトルとボーヴァワールのような自由な婚姻関係を築こうと言ってくれていたのだ。ファンタジーの中で恋は出来るが、その先には現実が待っている。だから沙智は福平と60を過ぎて再開する。20年前に出会っていたなら、男と女になっていたかもしれないが。

けっきょく「長江」というタイトルから受ける印象とは全然違うけれど、そのギャップも含めて非常に驚きに飛んだ非常に新鮮な感じを受ける小説。切れ味鋭い才人という感じで、かなり好みです。著者のほかの作品も読んでみよう。(ちなみにこのタイトルは別に間違っていない。長江とは変わらないものを例えているのではなく、むしろ変わりゆくものを例えているのであろうから。)