村上春樹著「東京奇譚集」新潮社

これも加藤幸子さんの「長江」と同じく雑誌「新潮」に連載していたもので、いくつかは既に読んだ記憶がある。昨日改めて全部読んでみたのだが、どうにも引っかかる。さらっと読めてしまうのだが、この本って実はかなりやばい内容を含んでいるのではないかと思いはじめる。だいたいこれってまるで細木数子の説法だか、江原某の霊視だか、霊感商法の勧誘マニュアルだかって感じではないか。
特に「品川猿」という作品が気持ち悪い。これなんてまさに細木数子そのもののように思える。
自分の名前を忘れるという奇妙な症状にかかった主人公が、カウンセラーに相談する。するとカウンセラーは名前を盗む猿を見つけてきて、この猿がなまえをぬすんだのがあなたの症状の原因なのだという。そして名前泥棒の猿は図々しくも名前を返すついでに、主人公が抱える心の闇を”ズバリ”指摘する。

細木だッたらこういう風にいうかも知れない。
「ちょっと厳しいこと言うわよ、いい。」
「あなたはねぇ、実は母親にもお姉さんにも愛されていなかったんでしょう。だからあなたの旦那や子供たちのことも本当には愛せないのよ。そしてそれを気づいてながら向き合わなかったんでしょ。」

そうかも知れない、私も何となく気づいてました。細木猿先生の言う通りかも知れません。言い分を聞いた主人公は傷つきながらもそれを素直に受け入れる。

うわぁ、危ない!マインドコントロールにかかってるよ!
こういうとき”健全”な小説なら「バーカ。何いってんのこの糞ざるが。全然当たってねぇよ。」とでも言い放って、猿とカウンセラーのババァをけっ飛ばして立ち去るべきなのではないか。小説にはそれぐらいの強がりが欲しい。

作者が体験した何気ない日常生活の中のふしぎから出発して(「偶然の旅人」)、死んだ息子の霊の存在を意識する出来事に遭遇した物語が語られ(ハナレイ・ベイ」)、ふしぎな出来事を収集し調査するも自らは体験できない民間のオカルト探偵の物語があり(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」)、超自然的な物質にすがることによって心の安寧を得る人々の物語が語られ(「日々移動する腎臓のかたちをした石」)、最終的に人々はオカルト的能力を備えた行政機構の中で心の問題を解決し安寧を得る(「品川猿」)。
良くできた癒しの過程のようにも見えるけど、嫌な目で見れば「僕はオカルト的な事象には関心をほとんど持たない人間である」だったはずの人が、次第にふしぎな出来事をたたみかけられる内にずぶずぶと浸っていく過程を見るようでもある。これが最後宗教団体に行くんだったらもっとみんな警戒しながら読むのだろうが、品川区のカウンセリングだから警戒心が薄れる。それこそオカルトは怖いなぁ、変な宗教団体だったらどうしようという人にも、品川区がやってるンだから安心ね、と思わされてしまう。
でも品川区なら安心なのか?民間ではなく、行政機構の中で行われていればオカルトだって大丈夫なのか?でも小森陽一っぽくて嫌なんだけれど、それこそ安倍内閣に見られるような記紀神話大日本帝国の神話にトラウマからの解放を求める心性と結びつく可能性だってある。それはオウムと同じぐらい危険なことなのではないか。
もちろん、心に闇を抱えている人々の存在があり、それが切実な問題であるのは分かるのだが、果たしてこのようなオカルトによって表現されるべきなのだろうか、そして単純な心理分析と行政によるオカルト的解法によって解消されるべのか? もっとべつの手段はないのだろうか。