村上春樹著「海辺のカフカ」新潮文庫

とりあえず「海辺のカフカ」を読み終わってので感想を書いてみた。
前の日記に書いてある「甘えすぎ」、っていうのはちょっと違うなと思った。
「甘やかしすぎ」、が正解。

ハンサムで背が高くてちょっとマッチョで、本をたくさん読んでて聡明で、一風変わっているけれど恥ずかしがり屋のチャーミングな少年(俺のイメージでは速水もこみち似w)は、そりゃあサクラお姉さんじゃなくとも甘やかしたくなる。俺だって「甘えすぎ」と書いた後に、「そうか少年は15才だったな、お兄さんちょっと厳しすぎたかなぁ。君はまだまだ子供なんだな。それぐらいのハンディがあったって当然だった。」なんて思ったもの。

カフカ少年は少年だからいろんなものに守られている。お父さんはカフカ君を突き動かす予言を与え、もう一人の自分は「君は一番タフな少年」と励ましてくれ、さくらお姉さんには慰められ、お兄さんやお母さんに導かれ、見ず知らずのおじいさんと青年、猫たちが知らぬ間に冒険の障害になりそうな問題を片づけてくれる。
カフカ少年は、そうしてみんなが設定し、みんなが血を流し、みんなが援助してくれることによって、冒険コースをなんとかたどり、行きて返りし物語りを達成する。

おめでとう。君は通過儀礼を無事こなしたんだ。オイディプス神話を再現し、象徴的に人だって殺した。君はそんな困難をやり遂げて少し大人になった。
疲れただろう。風の音を聞きながら眠りなさい。
「目覚めたとき君は新しい世界の一部になっている。」

これでいいのかなぁ。やっぱり甘やかしすぎなんじゃなかろうか。いくら子供だからって、そこまで用意してやらなくってもいいんじゃないか。タフな少年として「自然」に挑んだんじゃなかったのか?これじゃあまるでディズニーランドじゃないか?

でも作者なら次のように言うかもしれない。わたしは少年の物語を描いたんだから何が悪い。大人は少年の成長のために十分な準備をしてやるべきなんだ。無防備で晒すのは正しいことではない。これは大人の責任の問題なのだ。これは少年のための物語でもあるが、大人の責任を問うてもいるのだと。

でもなぁ、でもなぁ。
例えばこのシーンとかさぁやり過ぎじゃない。
甲村図書館で大島さんが、何ともご丁寧に夏目漱石の『坑夫』の読み方をカフカ少年に教えてやるシーン。
夏目漱石の「虞美人草」と「坑夫」を読んだというカフカ少年に、わざわざ坑夫という小説が夏目漱石の作品群の中で持つ独自性を指摘して注意を促す。

「『坑夫』か」と大島さんはおぼろげな記憶をたどるようにいう。『確か党挙の学生が何かの拍子に鉱山で働くようになり、坑夫たちに混じって過酷な体験をして、また外の世界に戻ってくる話だったね。・・・あれはあまり漱石らしくない内容だし、文体もかなり粗いし、一般的に言えば漱石の作品の中ではもっとも評判が良くないもののひとつみたいだけれど・・・・・、君にはどこが面白かったんだろう。」

カフカ少年は答える。
「それ(坑夫の主人公の体験は)は生きるか死ぬかの体験です。そしてそこからなんとか出てきて、またもとの地上の生活に戻っていく。でも主人公がそういった体験から教訓を得たとか、そこで生き方が変わったとか、人生について深く考えたとか、社会のあり方に疑問を持ったとか、そういうことはとくには書かれていない。彼が人間として成長したという手ごたえみたいなのもありません。・・」

「君が言いたいのは、『坑夫』という小説は『三四郎』みたいな、いわゆる近代教養小説とは成り立ちがずいぶん違っていると言うことかな?」

大島さんはそっと理解を後押しし、この問いにうなずく主人公に、さらにその小説とカフカ少年の状況との関連性を示唆してやる。
「それで君は自分を有る程度その『坑夫』の主人公に重ねているわけかな?」

大島さんはしゃべりすぎだ。こんなことまで手取り足取り教えてやる必要はないと思う。少年はそんな意味を誰かに教えられて知るべきではない。物語はまだ始まったばかりじゃないか。

もう一つの甘やかしシーンは、謎のフェミニストのおばさん達がやってくるシーンだろう。
”隠れマッチョ村上春樹、ついに安倍晋三と一緒にフェミニスト叩きに参加か!?”と思わせるあの違和感ばりばりの奇妙なシーンは、自身の小説世界をフェミニストから守ると同時に、カフカ少年の冒険譚をフェミニストのおばさん達の攻撃から守ってやるためのシーンなのではないか。
象徴的に母を求めるカフカ少年はフェミニストの攻撃に対して脆弱だ。
「あらあら、タフを装ってるくせに、まだ母ちゃんのおっぱいが恋しいの、坊や?」
「ガキだからって容赦はしないよ。あんたも家父長主義のブタなんだ。母を犯し、姉を犯し、女たちを殺した上で、素知らぬ顔で社会の主人になるんだ。」
そして長い髪の綺麗な女の子がいる優しい癒しの空間たる「図書館」も実はマッチョな存在だったりする。公共的な知を担う存在として図書館はそれ自体が秩序の象徴であり、中田さんや星野さんのように図書館的なものから排除されている存在がいる。
しかし大島さんはそんな攻撃からカフカ少年と「図書館」を必死に守る。
カミングアウトして自らを晒してまで。
そんな批判が適応される場所じゃないんだ。おっぱいを求めて何が悪いんだ。彼はまだ子供なんだ、少年に家父長制とか抑圧とかそんなことを言って何になるんだ。図書館だってか弱いものなんだ。歳出削減喰らったらあっという間に消し飛んでしまうようなか弱いものだ。そんな小さく弱いものじゃなくて、もっと大きなものをこそ批判すべきだろう。

でも、カフカ君はやっぱりフェミニストの主張を自分の頭で考えてみるべきだと思う。なぜそんなことを言うのか、なぜそんなに怒っているのか。両性具有者として無敵の大島さんに守ってもらうのではなく自分で考えるべきだったのではないか。少年の考える機会を奪った結果、あのシーンはジェンダーバッシングと結びつく可能性さえある。

カフカ少年にたいしてみんな優しすぎるんだと思う。
彼は自分がディズニーランドを冒険していたことを分かっているのだろうか?
セックスを教えてもらって、ほんの読み方を教えてもらって、ステップの踏み方を教えてもらって。教えてもらって意味を知ったからって三四郎の主人公にはなれないのではないか。

それでいいのかという疑問が沸々とわくが、作者だってそんなにバカじゃない。こうして管理された冒険譚としてカフカ少年の物語と対比されるべきもう一つの物語はちゃんと描かれていたりする。ここにおいてブルジョワ階級の少年たるカフカ少年の冒険を陰ながら支える中田さんと星野さんというルンペンプロレタリアートプロレタリアートのふたりの冒険の意義が考察されねばならない。(つづく?)