まんまバイオハザード4。

Gears of Warのカジュアルをクリア。しばらくオフは進めずに、オンばかりやってたのだけど、隙を見つけて一気にクリアしておいた。
鳴り物入りで日本に上陸したこのゲームだが、タイトル通りの内容。だから確かにグラは綺麗だが、それほど驚きはない。
カプコン製のポスト・バイオ的な位置にあるロスプラよりは断然面白いけど、やっぱり既視感がありすぎるし、ボリュームも物足りないから、神ゲーではない。それにしてもバイオを研究するのもいいが、最後の爆破までバイオに似せなくてもいいんじゃないかと思った。そこはまねしちゃいけないところですよ。

続き、続き。

Gears of Warに絶賛はまり中。延々とやって・・、いやそれではいかん。
ガチムチこわもて(;´Д`)ハァハァなマーカスたんはひとまずおいといて資本論に戻ろう。
さて、どう読むか。先をどんどん読んでいってもいいのだが、やはりちまちまやることにした。そっちの方が頭の体操にいい。

一日坊主はさすがにまずい・・。

資本論を読み直し始めてみての印象は、もしかしてマルクスって思ったより荒っぽい議論をしてるんじゃないの、という感じ。労働価値説の導出過程なんて、つっこまれてもおかしくないなぁと思う。労働生産物のみに着目して商品価値の内実を一般的抽象労働だっていうのはトートロジーじゃないのってどうしても思うし(古くからある批判らしい)、さらに真の「価値」を論じる必要があるのかというの疑問もある。現象を考察するに、その背後にある内実を明らかにせねばならぬというタイプの議論は、科学者のありようとしてはありなのかもしれないが、下手をするとと神学論争を招きかねないし。俺のようなヘタレは思わず「方法」とか「手続き」というレベルに逃げたくなる。

新日本出版社版(新書版)、第一巻第一分冊、第一章からスタート。

第一章 商品と貨幣

「資本主義の生産様式が支配している諸社会の富は「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。」

それゆえ商品の分析から研究は始められる。
ここで商品とは、

「その諸属性によって何らかの種類の人間的欲求を満たす一つのもの、一つの外的対象」

であるが、この欲求がいかなる性質のものであるか、どのようにして欲求を満たすかは問題とならない。
問題となるのは物の有用性である。物はさまざまな点で有用でありうるが、有用性は物の属性(質及び量)によって規定されている。ある物のもつこの有用性はその物を使用価値とする。使用価値は使用または消費によってのみ実現されるが、使用価値は富の素材的内容であり、交換価値の素材的内容をなしている。
「交換価値」は、一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係(=比率)として現れる。それゆえ交換価値はときと共に変動する偶然的なもの、相対的なものとしてのみ現れるかに見える。それゆえ商品に内在的な交換価値という表現は形容矛盾であるかのようにも思える。
ある特定の商品がさまざまな比率で他の商品と交換されるとき、それはいろいろな交換価値を持っていることになるのだが、A商品X量=B商品Y量=C商品Z量となるとき、それらは互いに交換可能な「等しいもの」を表現している。
ここで、同時に相互に交換可能であるということは、それら諸商品自体とは区別されるべきある内実の現象形態に過ぎないことに注意すべきである。
つまり全く異なる使用価値のA商品X量=B商品Y量となるとき、それらは一方でもなく他方でもないまたべつの第3のものに還元されなければならない。
この第三のものは当該商品の自然的属性ではあり得ない。なぜなら商品の自然的属性が問題となるのは、使用価値に関する限りにおいてであり、交換関係においてはそうした使用価値は捨象されているからである。
老バーボン?曰く

「一つの種類の商品は、その交換価値が同じ大きさならば、ほかの種類の商品と同じである。同じ大きさの交換価値を持つ諸物の間には、いかなる相違も区別も存在しない。」

こうして使用価値を捨象するとき、商品にのこされるのは我々の有用労働の産物であるという性格だけである。しかし、使用価値が捨象され使用における有用性が問題とされないとうるのなら、現れている労働の有用性すらも捨象されることになり、したがって労働の具体性も捨象されることとなる。するとこれらの労働はもはや互いに区別のつかない同じ人間労働、つまり「抽象的人間労働」へと還元されることとなる。
こうして労働生産物に残されているのは、

「・・区別のない人間労働力の支出の、単なる凝固対以外のなにものでもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は価値−商品価値である。」

正月らしい?

「全然正月らしくない。」元旦の朝、出勤してきたIさんだ。
「明菜が帰ってきて、テレビをとられたのよ。せっかく久しぶりに紅白を見てたのにさ。大晦日は紅白、行く年来る年って決まってるでしょ。」
明菜とはIさんの娘のことで、以前この店でバイトをしていた子だ。娘がやめたあと、母のIさんが入れ替わるようにして働くようになった。
「贅沢言い過ぎ。夜休めるだけいいじゃないですか。俺なんて30日から夜勤四連チャンですよ。で、娘が見てたのって、ダウンタウンでしょ、どうせ。」と俺。
「あたり。もう、バカみたいにがはがは笑ってさ。」
「娘ドSですもんね。浜田のファンに違いない。それにしてもあれ録画だそうですね。日テレももう少し考えなきゃ、あれじゃあ風情がないわ、せめて生にしてって感じ。でも実際のところ俺も休みだったら見てましたよ。ていうか出勤するまで見てたしw」
「娘ドSってなによw。まぁあなたの云うとおり、たしかに去年までよりはましなのよ。あたしコンビニのオーナーやってたでしょ。正月になるとアルバイトの学生連中がこぞって帰省するもんだから、あたしが夜中出なきゃいけなくなるの。酷い奴なんか、一月十日ぐらいまで帰ってこないのよ。もう殺してやろうかと思うわ。」
Iさんは某コンビニチェーン店のオーナーだったのだが、いろいろあってフランチャイズの権利を手放しこの店で働くようになった。
「そりゃ酷い。もしかして日勤も?」
「そう。夜中出て、昼間で寝て、昼からまた出て、また夕方ちょっと寝てまた夜。」
「うはっ。現代の奴隷労働とはよく言ったもんだ。」
「でしょ。もう殺す気かと。殺される前に殺してやる、なんて気分にもなるわよ。今はやめて清々してるわ。」


正月早々物騒ですねぇ、いいわよどうせ正月気分なんてありゃしないんだから、なんて話だったわけだが、Iさんの殺伐とした気分って分かる。酷い話だが俺なんてもう呪いまくりだったもの、31日〜1日の朝にかけての時間帯なんて特に。己自身に、そして社会にたいしての、鬱々と、いらいらと、悶々とした気持ちがひたひたとわいてきて。昨年一年分の、そして今年の分の呪いがこもった「あけましておめでとうございます」。

スポーツ新聞の政治的機能。

スポーツ新聞は単なる「スポーツ」新聞ではない。実際には野球・サッカーといったスポーツのみならず、事件・芸能・政治に至るまでかなり幅広い問題を扱っている。
そのスポーツ紙にとって教育基本法の改悪強行は取り上げるべき事件ではなかったようだ。先日の教育基本法の改悪の翌日、各誌の論調をチェックしようと近所のコンビニに行って新聞を買いに行ったのだけど、内容はさておき日刊紙は日経以外はトップに当然その話題を持ってきていたけど、スポーツ紙は一面・裏一面はもとより中記事ですらろくに、というかほぼ全く取り上げていなかった。
スポーツ紙というのは普通の日刊紙以上にアナウンス効果を持っているように思う。一面に大きな写真を使って大々的に取り上げる独特の編集手法にもとづくインパクトとにくわえて、なによりも早朝のニュース・ワイドショーのなかで毎日必ず紹介されることによる効果が大きい。ずらりと一面がボードに掲載されている絵は朝のおなじみの光景だと思う。
この仕組みが重要なのは、それがテレビ・新聞という異なるメディアを横断して、アジェンダを共有するという点にあるとおもう。そうしたメディア横断的に取り上げられる中で、全てが一つの方向を向いたとき「国民的関心」が作り上げられる。小泉劇場、ワールドカップで特に猛威をふるった手法だ。
この手法から見れば、スポーツ新聞というピースが欠如した今回は「国民的関心」とはいえない。メディアの中で、教育基本法とはそういう位置づけなんだ。

もちろん各誌の横並び体質、メディアが一斉になっての洪水報道は批判されるべきものであるかもしれないし、スポーツ紙は本来の役目通りにスポーツの話題、松坂のレッドソックス入りを報じるのは正しいあり方なのかもしれない。でも今回みたいに一斉に報じないというのはどうなんだろうともいえるし、だいたいスポーツにとって教育ってそんなに些末な問題なのんだろうか。
これはこれである種の非決定の決定、アジェンダとして取り上げないことの決定が働いたのではと邪推している。